にがてな食べもの
今日は、メイクを変えた。「化粧は、口紅と香水だけ」という向田邦子を真似たかったという非常に単純な理由で。
白洲正子、向田邦子、憧れの女性は多い。
向田邦子『父の詫び状』の中に、父親が亡くなった三十五日の法要のあと、精進落としに出た鰻重の蒲焼の大きさを比べてしまうほど、食べものの大きさの大小が気になるタチだというエピソードがある。
小さなころ、わたしのにがてな食べものは、鰻とバナナであった。人から嫌いな食べものを聞かれそう答えると、バナナはさておき、鰻に関してはみな、美味しい鰻を食べたことがないからだと決めつけた。そんなはずはあるまい。わたしは、田舎ではあるが、いちおう日本料理屋の孫娘である。
子どもでも自宅から歩いてすぐのところに祖父母の家はあった。1階と2階が料理屋に、3階と4階が祖父母と従兄弟の住まいになっている。小学校の通学路にあり、わたしは寄り道をしてよく入り浸った。調理場で板前さんたちの調理風景を眺め、湯気を眺め、忙しなく動き回る仲居さんたちのあとをついて歩き、仲居さんたちの着物の着替えを眺め、宴会の席の準備をする仲居さんの真似ごとをした。歳の離れた妹が生まれるまで兄妹のいなかったわたしは、従兄姉たちをお兄ちゃんお姉ちゃんと呼び、彼らのあともついて歩いた。
遊びに行くと、おいしいものがたくさんあった。おやつに余り物の茶碗蒸しを食べ、まな板の上の食べ物や漬物を目を盗んではつまんだ。祖父は気前よく孫たちにおいしいものを振る舞ってくれた。おいしいものが好きなひとだった。孫だけでなく我が家の愛犬もたいへんに可愛がってくれた祖父は、散歩の途中に立ち寄ると、ローストビーフの切れ端を彼女にたっぷりと与えた。味を占めた愛犬は、しょっちゅう脱走を試み、いなくなったと騒げばすぐ、祖父母宅で祖父からローストビーフをもらっていると電話があり、毎度慌てて迎えに行った。
口数は多くない祖父の後ろ姿をよく覚えている。卵焼き器で出汁巻きを巻く、祖父の足元から見上げた姿。最期の入院生活で祖父は、病院食が食べられないと駄々を捏ね、肉とコンロと鍋を持ってこいと病室ですき焼きをし、酒と煙草がなかったら死んだほうがましだと煙草をやめず、ベッドの下に酒を隠した。母は見舞いのたび、空瓶が詰め込まれたごみ袋をこっそり抱えて帰ってきた。祖父の巻く出汁巻きが、今でも恋しい。
話がだいぶと逸れてしまったが、祖父はよく鰻を持たせてくれた。わたしも妹も食べられなかったので、父と母は喜んでわたしたちの分まで食べた。わたしも妹も、鰻は嫌いなくせに鰻のたれは好物で、父と母が嬉しそうに鰻を口に運ぶ横で、ごはんにたれをたぷたぷとかけた、たれごはんを嬉しく食べた。
祖父のことも祖母のことも、本当に好きだった。
祖母の通夜を終え、みな悲しみに暮れ、泣き疲れていた。終わると急に腹も空き、葬儀屋で仕出しも行っていた祖父母の料理屋から届いた弁当の蓋をたのしみに開けた。
松花堂弁当だと思って開けた中身は、鰻重であった。わたしのにがてな食べものは、鰻である。ただ、それ以外に今ここですぐに食べられそうなものもない。もう立派なおとなであるし、祖父ではないので、駄々も捏ねられはしない。なにかを口にしないとどうにもならないほどに、頭も腹もなにもかもがからっぽだった。仕方なく、渋々口にした。
そうして口にした鰻重は、信じられないほどに美味しかった。頑なに食べてこなかった鰻は、これほどに美味しい食べものだったのかと、そのことを祖母は最後に教えてくれたのかと、また泣いた。泣きながら、鰻重を食べた。それから、わたしの好物のひとつは、鰻重になった。
向田邦子著書を読んでいると、なんでも忘れてしまうわたしの中から、忘れさっていた家族の思い出たちの断片が蘇る。葬式、鰻重ということばの連鎖からつないで祖父と祖母を思い出す。
あんなにうまくは書けないと、また向田邦子に憧れる。未だ、にがてな食べものはバナナである。



